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所沢の足跡 ~歴史編~

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所沢を縦断する古(いにしえ)の道


所沢には古くから市域を大きな道が通り、中央と地方を結ぶ交通の要所として発展していました。 市域に残る道と歴史の移り変わりを紹介します。

古代の道

久米・南住吉地区に奈良・平安時代の遺跡、 東(あずま)の上(うえ)遺跡があります。周辺の集落跡に比べて、 かなり大規模で、昭和50(1975)年以来多くの調査が行われてきました。

平成元(1989)年の調査で南陵中学校の校庭から、南北に伸びる幅12mの直線道路が発掘されました。この道路は、 周りの竪穴住居跡などから7世紀後半から9世紀まで存続していたと考えられています。

道路が作られた当時、武蔵の国府が置かれていた東京都府中市や、国分寺が創建された国分寺市からも同様の道路が発掘されており、 東の上遺跡の道路跡は、そのほぼ延長線上にあります。

また、道路跡の延長上と思われる北方にも、大集落跡が点在しており、古代の幹線道路の1つ東山道(とうさんどう)武蔵(むさし)道(みち) (入間(いりま)路(じ))と推定されています。

瓦や日常容器としての須恵器を生産していた窯跡(ようせき)郡(ぐん)なども分布しており、製品の運搬、流通等にも用いられ、 相当の往来があったと思われます。

東の上遺跡からの出土品を見ると、墨書土器、漆紙文書や官職を表す帯金具、また鉄製馬具、焼印など馬に関するものなど、 一般集落では出土しない遺物が見られます。

このことからも、入間郡衙説(いるまぐんがせつ)(役所が置かれ入間郡の政治・経済の中心地であったとする説)、武蔵路駅家(うまや)跡説 (早馬や公文書の逓送(ていそう)、公用旅行者に対する馬の乗継や、宿泊などの施設があったとする説)などがありますが、 いずれにしても交通の要所であったことは間違いありません。

東の上遺跡は、9世紀代には衰退し、10世紀前半に終焉を迎えました。これは、ちょうど全国の地方官衙(かんが)(官衙=役所)の消長とほぼ同じ傾向を示し、 律令制の衰退、崩壊を反映した事象とされています。

中世の道

律令制の衰退とともに、時代は武士の台頭する中世へと移りました。中世、政治の中心が鎌倉に移ると、 東国の武士が鎌倉との往復などに使うため、鎌倉街道が整備されました。

市内では「入間川道」と呼ばれた本道の他に、「堀兼道」「小手指道」などの枝道があり、入間川道と堀兼道の分岐点の南、 宮本町1丁目の新光寺付近に発展した河原宿などのように街道沿いに集落ができ宿として発展していきました。

鎌倉街道は、鎌倉幕府の崩壊にも大きな役割を果たしています。新田義貞は上野国新田庄(群馬県太田市)で倒幕の兵を挙げ、 鎌倉街道を南下しました。

緒戦となった小手指ヶ原は30余回も打ち合った合戦の場であり、現在そこには「小手指原古戦場碑」が建てられています。

鎌倉街道は、室町幕府が成立した後も、地方機関として鎌倉府(関東府)が置かれ関東を管轄したこともあり、近世に入ってからも使用されていました。

近世の道

徳川氏が関東に入国すると、中心は鎌倉から江戸へと移り、江戸へ向かう道が幹線道路に変わっていきました。

江戸城周辺がまだ整備されていなかった頃、家臣は知行地に住み、そこから江戸へ勤務していたことも江戸への道が整備されていく 要因となりました。

また、江戸城の建設が始まると、青梅や飯能方面からの建設材を輸送する必要があり、青梅から田無・中野を通る青梅街道が発達しました。

所沢からも、江戸や田無に抜ける道が整備されていきました。この街道と鎌倉街道とが直角に交わる手前、現在、銀座通りと呼ばれている中心地市街地の通りは、 「江戸道」と呼ばれていました。

所沢の中心も、鎌倉街道沿いから次第に江戸道近辺へと移っていきました。(K)

参考文献

  • 『所沢市史 上』 所沢市《213.4ト》
  • 『ところざわ歴史物語』所沢市教育委員会《213.4ト》

「所沢の足跡」地図

東の上遺跡 新光寺 小手指原古戦場碑 銀座通り