- 民衆の心をひとつに 荒幡の富士(2007.04)
- 太平記における激戦の地 小手指ヶ原古戦場(2007.05)
- 「消え水」の川 砂川堀(2007.06)
- 所沢市内のちょっと変わった地名(2007.07)
- 続・所沢市内のちょっと変わった地名(2007.08)
- 暮らしの中に図書館を・・・ 所沢図書館本館の建設(2007.09)
- 「ヤマ」のめぐみ 所沢の自然循環型農業(2007.10)
- 所沢陸軍飛行学校と少年飛行兵の像(2007.11)
- ちょっぴり懐かしい所沢の方言(2007.12)
- 所沢のお正月(2008.01)
- 所沢に鉄道を 川越鉄道と武蔵野鉄道(2008.02)
- 所沢の鉄道と駅(2008.03)
所沢の足跡 2007年度
もくじ

@民衆の心をひとつに 荒幡の富士(2007.04)
荒幡小学校から程近い「市民の森」の奥に、ぽっこりと小高い山が見えます。この山は「荒幡の富士」B-3と呼ばれる人工の富士山です。
荒幡村は、明治24年に吾妻村の一部となりましたが、小字ごとに鎮守があり民心が統一されないおそれがありました。そこで、合併に先立つ明治14年、三島神社、松尾神社、氷川神社、神明神社の4社を村社浅間神社に合祀しました。このような神社合祀による、村民の民心統一は明治政府の意図したものであり、全国的に行われていました。
さらに明治17年、村民たちの手によって、浅間神社境内にあった富士山をさらに大きくして移築することになりました。
本来、富士山築造は富士山信仰の氏子たちによって行われるものです。しかし、この浅間神社の富士山移築は、民心のさらなる統一をはかるために行われた事業でした。
同年2月から村に住む青年たちが中心となって起工すると、近隣の村からも信徒が加わって、延べ1万人が参加したといわれています。 青年たちは、農閑期などに総出動し、もっこ(持籠)に土を入れてバケツリレーのように運び、ざるに土を入れて積み上げてゆきました。すべてが村民たちによる手作業でした。 この長く辛い共同作業によって村民の心はひとつになってゆきました。
そして、およそ15年の歳月をかけて、明治32年に、約10mにもおよぶ荒幡の富士は完成しました。
この頃、人工の富士山は数多く造られましたが、荒幡の新富士は「東京付近随一の傑作」と称されています。
大正12年、関東大震災で8合目まで崩れましたが、2年がかりで修復されました。
現在は、所沢市の指定文化財となり、地元、荒幡富士保存会の方々によって管理保存されています。
狭山丘陵の稜線上に築かれた頂上から望む雄大な景観は格別です。明治の文豪、大町桂月は、何度となくこの地を訪れ、この眺望を褒め称えたとのことです。大正10年3月には、大町桂月の撰文で、「荒幡新富士築山の碑」が建てられています。 (F)
八州の我に朝する青葉かな 桂月
参考文献
- 『所沢市史 文化財・植物』所沢市《213.4ト》
- 『所沢市史 社寺』 所沢市《213.4ト》
- 『ところざわ歴史物語』所沢市教育委員会《213.4ト》
- 『埼玉ふるさと散歩 所沢市』斉藤脩治/著さきたま出版会《291.34サ》
- 『所沢の歴史と地理』内野弘/著《K222ウ》
- 『郷土あづま』 下田佐重/著《K222シ》
A太平記における激戦の地 小手指ヶ原古戦場(2007.05)
鎌倉時代末期、各地で倒幕の動きが起こり、世は戦乱の時代でした。そして、市内でも鎌倉街道沿いの小手指ヶ原を中心に激しい戦いが繰り広げられました。
新田義貞は上野国新田庄(群馬県太田市)を本拠地とする源氏の一族でしたが、元弘3年(1333年)倒幕のため挙兵しました。 最初は150騎ほどであった新田軍は、足利氏らの援軍もあり、小手指ヶ原付近ではおよそ20万騎の大軍勢になりました。 幕府軍との激戦は、30余回もの打ち合いとなりましたが、その日のうちには勝敗がつきませんでした。やむなく新田軍は入間川(狭山市)、幕府軍は久米川(東村山市)にそれぞれ引き上げました。
翌日、義貞は久米川の幕府軍を襲撃し、分倍河原(府中市)まで追いつめ、一度は敗れたものの、打ち負かすことに成功しました。 そして5月22日に執権・北条高時らは自害し、鎌倉幕府は滅びたのです。この戦の様子は『太平記』にも記されています。
また、戦にちなんだ史跡も数多く残されており、小手指ヶ原にほど近い「白旗塚(しらはたづか)」は義貞が源氏の白旗を立てた場所といわれており、その北の「誓詞橋(せいしがはし)」B-2は倒幕を誓った場所とされています。また、長久寺(久米)の南の柳瀬川にかかる「勢揃橋(せいぞろいばし)」C-3は新田軍が勢揃いした場所と伝えられています。八国山の「将軍塚(しょうぐんづか)」C-3は、義貞が戦の際に陣を敷き、軍勢を指揮した場所とされています。
その後、室町幕府が開かれ足利氏が実権を握ったものの「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」と呼ばれる内部戦争が起こり、足利氏の敵対勢力が各地で活発化しました。 正平7年(1352年)新田義貞の遺児、義興・義宗が後醍醐天皇の皇子宗良親王を奉じて挙兵し、足利方に戦いを挑みました。 この一連の戦いを「武蔵野合戦」と総称します。
小手指ヶ原では義宗と足利尊氏が軍勢を率いて対決しました。『太平記』にはこの戦の様子として、饗庭命鶴丸(あえばのみょうつるまる)率いる足利方の一軍が、付近の梅の花を折り取って箙(えびら・矢を収納する道具)に挿して戦いに望んだ場面が記されています。 また、新田方の宗良親王は、この戦に際して味方の士気を高めるために和歌を詠みました。北野天神社の境内にはこの歌の歌碑が建てられています。(F)
君のため世のためなにかおしからん すててかひあるいのちなりせは 宗良親王
参考文献
- 『所沢市史 文化財・植物』所沢市《213.4ト》
- 『所沢市史 上』 所沢市《213.4ト》
- 『ところざわ歴史物語』所沢市教育委員会《213.4ト》
- 『埼玉ふるさと散歩 所沢市』斉藤脩治/著さきたま出版会《291.34サ》
- 『所沢市史研究 第10号』所沢市教育委員会《213.4ト》
B「消え水」の川 砂川堀(2007.06)
市内を流れる川といえば、柳瀬川・東川が代表的なものですが、もっと小さな川もいくつか流れています。今回はそのひとつ「砂川堀」を紹介します。
砂川堀は狭山丘陵北麓の三ヶ島湿地(堂入の池)を水源とする川です。あそこから、富岡地区の台地を流れて三芳町、ふじみ野市を抜け、富士見市で新河岸川(しんがしがわ)に合流します。かつては、冬の渇水期には途中で流れが消滅したため「末無川(すえなしがわ)」と呼ばれました。また「砂川」という名前も、流れが消えて砂の河床が露出することに由来しています。
流域には遺跡も数多く存在し、最上流の砂川遺跡をはじめ、中流域の駿河台遺跡(下富)など石器時代の遺跡が発掘されています。しかし農耕が生活の主な手立てとなると、それに不向きな「末無し」の川付近から生活の痕跡は消えていきます。
再び、中流域の台地に人が住み始めるのは江戸時代。三富の開拓を中心とする新田開発を待つこととなります。元禄9年、柳沢吉保はこの「末無し」の川の流れを北に向け、所沢新田、神米金(かめがね)、下富と掘り進んでいきました。しかし、責任者の急死で工事を断念。そこで、自然放流された水は下富を流れ、大井町の林の中で自然消滅し、「消え水」の名を残しました。
明治時代になると、所沢飛行場の排水路として使用するため、付け替え工事をして、南に寄った現在の流路となりました。さらに、第二次世界大戦末期に飛行場の拡張により基地西方で止められた川の水は、付近の低地に沼のように溜まり、食用ガエルのおたまじゃくしが、子どもたちを喜ばせていたそうです。
戦後、飛行場は接収され米軍基地となりましたが、基地の排水は時おり氾濫し、富岡地区を中心に農作物が被害に遭いました。米軍は昭和29年に下富ダムまでの河道を整備しています。
昭和30年代以降、新所沢地区の開発が進み排水量も増加。下流域に深刻な問題をもたらしました。昭和44年に都市下水路として管理されることが決まり「砂川堀」の呼び名が一般化しましたが、昭和50年代に入っても新所沢周辺で氾濫する風景が、しばしば新聞紙上を賑わせました。
現在の砂川堀は整備され、青葉台付近など、ところどころで流れを眺めながら散歩ができるスポットとなっています。中でも、小手指のシダレザクラB-2は両岸合わせて1キロメートルに119本植えられており、春になると多くの花見客が訪れます。(F)
参考文献
- 『所沢市史 現代史料』所沢市《213.4ト》
- 『ところざわ歴史物語』所沢市教育委員会《213.4ト》
- 『ところざわモード Vol.2』所沢市民経済部商工労政課《291.34ト》
- 『所沢市洪水ハザードマップ』荒川広域洪水ハザードマップ等策定検討委員会《517.4ト》
- 『身近な川について考えよう 砂川堀流域編』 (財)リバーフロントセンター《K517.2ミ》
- 「広報ところざわ」昭和47年2月10日号
C所沢市内のちょっと変わった地名(2007.07)
今回は所沢市内のちょっと変わった地名をご紹介します。
- 小手指《こてさし》小手指地区B-2
- 小手指という地名は古く、太平記の合戦の場としても知られています。名前の由来についてはいくつかの説があります。しかし、はっきりとしたことはわかっていません。
- @合戦の舞台となったことから、武具である「篭手(こて)」にちなんだとする説。
- A昔、日本武尊(やまとたける)がこの地にて小手をかざして前方を見たという伝承による説。
- B昔、この原野に生えていた茨(いばら)の名称とする説。
- C「さし」は焼畑を意味し、原野を開墾したことによるとする説。
- 糀谷《こうじや》三ヶ島地区A-2
- 「麹谷」と記す場合もあります。市域の最西部の地名で、もともとは宮寺村(現・入間市宮寺付近)の一部であったと伝えられています。 糀谷の「谷」は文字どおり谷地を意味し、谷に冠した「糀」は春の七草でもあるハハコグサ(ゴギョウ)のことをさしています。ハハコグサの花の形状が糀に似ており、湿地に群生していたことからこのように呼ばれたといわれています。
- 城《しろ》柳瀬地区E-2
- 中世、この地に八王子城主北条氏の支城と考えられる「滝の城(たきのじょう)」が築かれたことにちなんでいます。滝の城は複数の郭(くるわ)を組み合わせた平山城(ひらやまじろ)の一種で、現在の城山神社が本丸に当たります。 滝の城が築かれた当時、付近の民衆は一度本郷に移されました。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めのときに本城とともに落城した後、民衆は再びこの地に戻り、城の北側の台地上に村落を形成したと伝えられています。
- 神米金《かめがね》富岡地区C-1
- 明治9年に村落が合併して村になる際、神谷新田の「神」、久米新田の「米」、堀兼新田は堀金とも書いたのでその「金」をとってつけられました。
- 神谷新田《かみやしんでん》
- 横見郡吉見村(現・比企郡吉見町)の農民・神谷内蔵助(かみやくらのすけ)に開発されたことにちなんでいるそうです。
- 久米新田《くめしんでん》
- 久米村(現・所沢市久米)の平塚氏に開発されたことによるそうです。
- 堀兼新田《ほりがねしんでん》
- 堀兼村(現・狭山市堀兼付近)を本村とする新田であることからこのように呼ばれました。(F)
参考文献
- 『所沢市史 地誌』 『所沢市史 文化財・植物』 所沢市《213.4ト》
- 『ところざわ歴史物語』 所沢市教育委員会《213.4ト》
- 『所沢市史研究 第19・20号』 所沢市教育委員会《213.4ト》
- 『新編武蔵風土記稿 第8巻』 雄山閣《K290.1シ》
- 『武蔵野歴史地理』高橋源一郎/著 有峰書店《K290タ》
- 『埼玉県入間郡誌』 千秋社《K220サ》
- 『埼玉県地名誌』 韮塚一三郎/著 北辰図書《K290.3ニ》
D続・所沢市内のちょっと変わった地名(2007.08)
前回に引き続き、所沢市内のちょっと変わった地名をご紹介します。
- 日比田《ひびだ》柳瀬地区D-2
- 新しく開墾された田畑という意味の「墾田(こんた)」が「昆田」となり、さらに「昆」が上下に分かれて「日比田」となったという説があります。また、「日比田」には柴草の土地という意味があるともいわれています。
- 牛沼《うしぬま》松井地区D-2
- 昔、牛沼にある長栄寺閻魔堂(ちょうえいじえんまどう)付近に沼があり、その形が牛に似ていたことから牛沼と呼ばれたそうです。
- 荒幡《あらはた》吾妻地区C-3
- はっきりしたことはわかっていませんが、いくつかの説があります。
- @昔、この場所に旗が一流飛んできたことに由来するという説。
- A平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した武士団「武蔵七党村山党」の一族、荒波多(あらはた)氏がこの地を拠点としていたことからその名にちなんだものとする説。
- B荒幡とは、荒木・荒久と同じく開墾地をさすものとする説。
- 御幸町《みゆきちょう》所沢地区C-2
- 御幸町は大正元年(1912年)に所沢飛行場で行われた陸軍大演習の閲兵のため、大正天皇が行幸した記念に大正4年(1915年)に改称されました。もともとの地名は「下町」でした。この大正4年には、この年挙行の大正天皇の御大典(即位記念祭)に合わせて所沢の町区名が大幅に改称されました。このとき誕生したのが、寿町・宮本町・有楽町などで、いずれもおめでたい名称となっています。
- 三ヶ島《みかじま》三ヶ島地区A-2
- 三ヶ島という地名は、この地に人が住み始めた当初3つの小集落があり、それらを島に見立ててこのように呼んだといわれています。古くから伝わる地名で、中世末期の古文書や金石文(きんせきぶん・金銅製の鐘や鰐口、また石碑などの紙以外の素材に書かれた文字資料)には、しばしば「三ヶ島」の文字が登場します。
- 北岩岡《きたいわおか》富岡地区C-1
- 「北岩岡」はあるのに「南岩岡」はない不思議な地名です。これは所沢村の北田氏が開発した「北田新田」と町谷村(現・山口地区)の岩岡氏が開発した「岩岡新田」を合わせた地名です。神米金(かめがね)と同様に明治8年の村落合併時についたものです。(F)
参考文献
- 『所沢市史 地誌』 『所沢市史 文化財・植物』 所沢市《213.4ト》
- 『ところざわ歴史物語』 所沢市教育委員会《213.4ト》
- 『所沢市史研究 第19・20号』 所沢市教育委員会《213.4ト》
- 『新編武蔵風土記稿 第8巻』 雄山閣《K290.1シ》
- 『武蔵野歴史地理』高橋源一郎/著 有峰書店《K290タ》
- 『埼玉県入間郡誌』 千秋社《K220サ》
- 『埼玉県地名誌』 韮塚一三郎/著 北辰図書《K290.3ニ》
- 『郷土あづま』 下田佐重/著《K222シ》
E暮らしの中に図書館を・・・ 所沢図書館本館の建設(2007.09)
1980年(昭和55年)5月、所沢航空記念公園内に新しい市立図書館が誕生しました。【「埼玉一」の市立図書館】と新聞でも報じられた所沢市立所沢図書館(本館)C-2はどのような経緯で建てられたのでしょうか。
1948年(昭和23年)に所沢青年団により「所沢図書室」が創設されました。図書室は1964年(昭和39年)市に移管され所沢市立所沢図書館として開館しました。 1970年(昭和45年)に所沢市文化会館内に移転。同じころ、市内では米軍基地返還運動が高まりを見せていました。また、そのことにからめて埼玉県で3番目の県立図書館誘致について県に要望していました。しかし、県立図書館は川越市に建設されることになり、所沢市は独自に県立図書館と同じような規模の市立中央図書館を建設するために動き始めます。
1976年(昭和51年)4月、市は「所沢市図書館建設委員会条例」を制定。予算に図書館の設計委託料を計上し、調査研究を本格的に開始しました。建設予定地は、米軍基地跡に建設中の県営所沢航空記念公園内に決定しました。
1977年10月の「図書館建設委員会の市長諮問に対する答申」には市民の図書館に対する期待が込められています。
- 市民の学習要求に十分応えられる図書館
- 所沢市の将来性と地域性に根ざした図書館
- 市民が多様な学習ができる資料と施設を備える。施設の構成は次のとおり
開架室(一般室) 児童室 和室 対面朗読室 学習室 集会室 新聞雑誌コーナー レファレンスコーナー 視聴覚室 移動図書館センター 書庫 事務室 郷土民俗資料室 篤志文庫- 親しみやすく入りやすい構造とする
- 歳月を経るほど美しくなる図書館とする
- 乳幼児を持つ母親や身体障害者、老人が利用できるよう配慮する
- 特別な室を除き、可能な限りワンフロア・システムとし、弾力的活用ができるようにすること
- トイレ・エレベーター・階段等は身体障害者の利用について特に配慮すること(抜粋)

さまざまな事情でかなわなかった部分もありますが、バリアフリーを念頭に置いた、当時としては画期的な図書館であることは間違いありません。また、現在ではどこの図書館にもある視聴覚室やレファレンスコーナーが盛り込まれているのも注目すべき点です。その後の検討で、コンピュータシステムの導入も決まりました。 1979年(昭和54年)1月に着工。ここから約1年の歳月を経て所沢市立所沢図書館は完成しました。
あれから27年。今年、所沢市立所沢図書館は大きな節目を迎えています。耐震工事期間中は皆さまにご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力をお願いします。(F)
参考文献
- 『所沢市立所沢図書館要覧 2006』 所沢市立所沢図書館《016.2ト06》
- 『所沢図書館の建設(経過の概要)』 所沢市立所沢図書館《K016.2ト》
- 『所沢市立図書館関係記事資料』 所沢市立所沢図書館《K016ト》
- 「日刊新民報」 1980年3月2日号
F「ヤマ」のめぐみ 所沢の自然循環型農業(2007.10)
みなさんは、「ヤマ」と聞いてどんな「ヤマ」を想像しますか?おそらく、ほとんどの人が傾斜がある「山」を思い浮かべることでしょう。ところが、市内の農村地域では「ヤマ」といえば雑木林、それも平地林のことを指します。
「ヤマ」の歴史は江戸時代、三富の開拓(さんとめのかいたく)に始まります。三富新田は短冊形に区画され、それぞれの区域が道路側手前より、屋敷林(住居を取り囲む林)・耕地・平地林(ヤマ)に分けられていました。地割の中で最も重要な役割を果たしていたのが、敷地の一番奥に配置された平地林(ヤマ)でした。
もともと三富新田は関東ローム層の上にあり、土壌は酸性で植物の栽培には不向きな荒れた土地でした。しかも、雨が降れば水を吸ってぬかるみ、風が吹けば土が舞い上がって飛び、冬には霜柱が立ちやすい、となかなか手に負えない状況でした。水田地帯であれば、山から養分をたっぷり含んだ水が流れてくるのですが、近くに大きな川のないこの地域では、それも望めません。この土地で毎年作物を作り続けるためには、どうしても人の手で土壌に栄養を与える必要がありました。そこで活用されたのが「落ち葉堆肥」です。
「落ち葉堆肥」はヤマに植えられたクヌギやコナラなどの落ち葉を主な原料として作られます。冬にこれらの木が葉を落としたころ、落ち葉を熊手などで掃いて集めます。この作業を、「くず掃き」といいます。昔の農家は冬場の農閑期を利用して、一家総出でこのくず掃き作業をしたとのことです。掃いた落ち葉は一ヶ所に集められ、一年ほど寝かせます。細かい部分は農家によって違いますが、基本的な作業は今も昔もそれほど変わりません。
寝かせた落ち葉は雨を含んで発酵し、細かい堆肥となっていきます。初夏のころ、この堆肥を掘り返すと「まんじゅう虫」と呼ばれる真っ白いカブトムシの幼虫が見つかります。カブトムシの幼虫たちは、分解されて細かくなった落ち葉を食べて大きくなります。この幼虫のフンが野菜を育てるのに必要な栄養分をたくさん含んでいます。カブトムシの幼虫のほかにも、ミミズ・ダンゴムシ・その他の微生物たちが落ち葉を分解させ、さらに立派な堆肥が作られていきます。
こうして作られた堆肥で育った野菜は、味も良く、何より安全です。しかし、近年、農家の兼業による多忙化や相続税対策などで「ヤマ」を手放す農家が多くなりました。環境にも人にも優しいこの自然循環型農業を、次の世代に伝えていきたいものです。(F)
参考文献
- 『武蔵野の落ち葉は生きている』いるま野農業協同組合/編家の光協会《613.136ム》
- 『ふるさとのくらし日本のまちとむら5 都市近郊のむら』小峰書店《09》
G所沢陸軍飛行学校と少年飛行兵の像(2007.11)
明治44年、わが国初の飛行場がこの所沢の地に誕生しました。それから終戦まで日本における航空の発展はこの所沢の地とともにあったといっても過言ではありません。
大正8年、将校及び下士官の教育を目標として陸軍航空学校がこの所沢に開校しました。大正10年には下志津(千葉県千葉市)と明野(三重県伊勢市)に分校が設けられ所沢の本校は陸軍航空の総本山的役割を担いました。 大正13年、陸軍航空学校は改称され、所沢陸軍飛行学校となりました。下志津と明野の分校はそれぞれ独立し、航空における各分野ごとの教育をすることになりました。所沢陸軍飛行学校では主に基本操縦と機関工科を担当しました。
昭和8年、所沢陸軍飛行学校令が改正され、少年航空兵教育が加わることになりました。ところが、この少年航空兵教育が加わったことにより学校が手狭となってしまい、操縦教育と機関教育を分離する必要が生じました。 昭和10年、所沢陸軍飛行学校の機関科を分離独立し、陸軍航空技術学校が誕生しました。 さらに昭和12年には下士官と少年航空兵の整備教育を分離独立させ、陸軍航空整備学校が誕生しました。これにより、所沢陸軍飛行学校は廃止され、19年間にわたる飛行教育機関の役目を終えました。
昭和16年、陸軍航空技術学校は立川に移転。昭和18年には同様の陸軍航空整備学校が岐阜に設置されたことから、所沢陸軍航空整備学校と地名を冠した学校名に改称されました。同じような名称の学校が次々と分離・独立・設置されてゆくことから、戦時中の航空の発展が急速であったことがうかがえます。 所沢陸軍航空整備学校は終戦まで幹部候補生の教育、少年飛行兵技術教育の中心的存在でした。
昭和19年、この所沢陸軍航空整備学校の敷地内に「少年飛行兵の像」が建立されました。 この像は昭和18年に彫刻家の長沼孝三(1908-1993)が第2回大東亜戦争美術展に出品したものです。翼を抱き、空を見上げる航空整備兵3人の姿は当時の少年飛行兵や整備兵のシンボルとされました。別名「健児の塔」と呼ばれ『陸軍少年飛行兵史(補遺)』に掲載されている「所沢陸軍航空整備学校配置図」では健空神社のすぐ隣に「健児の塔」が記載されています。
この「少年飛行兵の像」は所沢航空資料収集する会の尽力により修復され、現在も所沢航空記念公園C-2のほぼ中央(放送塔と時計塔の間)で静かに平和を見守っています。(F)
参考文献
- 『雄飛−空の幕あけ所沢』所沢航空資料調査収集する会《538ユ》
- 『飛翔−所沢飛行場の経歴』所沢航空資料調査収集する会《K390ト》
- 『陸軍少年飛行兵史』
- 『陸軍少年飛行兵史(補遺)』少飛会《K396リ》
Hちょっぴり懐かしい所沢の方言(2007.12)
「あんつったってよー」 「そうだいねえ」 現在でも、市内のあちこちから聞こえてくる所沢の方言。市内のお年寄りから聞いた話によると、「あんだんべえ」「そうだんべえ」など末尾に「べえ」がつく言葉が多いことから「所沢のべえべえ言葉」と都会の人からからかわれることもあったそうです。 あったかくてどこか懐かしい所沢の方言。三ヶ島地域を中心にご紹介します。
- 【動物・植物】
- ちょうちんばな・・・ホタルブクロ のびろ・・・ノビル こぶた・こぶたむし・・・カメムシ
びんぼうぐさ・・・ヒメジオン・ハルジオン まんじゅうむし・・・カブトムシの幼虫 - 【衣・食・住】
- おぼちゃ・・・お風呂 きびしょ・・・急須 くね・・・垣根 したじ・・・汁・つけ汁
しゃんじゃく・さんじゃく・・・兵児帯 つうし・・・篠竹で編んだ小さいザル
ばか・ばかだけ・・・ミョウガ はんま・・・タイヤ・車輪 ほし・・・栓(風呂の栓など) - 【人・からだの呼び名】
- あかっこ・・・赤ん坊 えぼ・・・いぼ おらが・・・自分の家(家族)
けば・けんば・・・毛 つぶあし・・・素足・裸足 - 【いろいろな言葉】
- あぐぬく・・・上を向く あんだんべえ・・・なんでしょう あんつったって・・・何と言ったって いいかげんぶし・・・大雑把・適当なこと いら・えら・・・いっぱい・たくさん
おっぺす・おっぺえす・・・押す かんます・かんまあす・・・かき回す こば・・・隅・角
しとっぽい・・・湿っぽい すく・・・敷く そうすんべえ・・・そうしましょう
そうだいねえ・・・そうだね つっとす・・・突き刺す とばっくち・・・入ってすぐのところ
なびる・・・こすりつける・塗る ぬるたっこい・・・ぬるい
はしっこい・・・賢い・機転が利く・ずる賢い ひとつっつ・・・ひとつずつ
ぶっちゃく・・・潰す・壊す ぶりまく・・・ばらまく・まき散らす
へだら・・・冗談・馬鹿なこと・くだらないこと やっこい・・・やわらかい
ゆすがる・・・ゆすぐ ろくすっぽ・ろくさっぽ・・・あんまり・たいして
今回ご紹介したのは三ヶ島地域ですが、同じ市内でも、地域によって少しずつことばが違うことがあります。ぜひ、身近な「所沢ことば」に耳をかたむけてみてください。(F)
参考文献
- 『三ヶ島ことばあんだんべえ』所沢市立三ヶ島公民館《K812ア》
- 『三ヶ島地方の方言』新井正裕/編《818.34ミ》
- 『関東地方の方言』国書刊行会《K810コ》
- 『埼玉県南部・東京都北部地域の方言分布(1)〜(3)』 柴田武/著《K810シ》
I所沢のお正月(2008.01)
今月は昔から伝わる所沢のお正月を紹介します。
お正月の準備
煤払い(すすはらい)・・・12月中旬に行ないます。まず、庭にむしろを敷いて、その上に神棚・仏壇・畳・障子などの家の中にあるすべてのものを外に出します。そして、笹竹を用いて各部屋の煤やほこりを払います。外に運び出したものは、はたきをかけたり水で洗ってきれいにするものもありました。
茅葺き屋根の家では、梁(はり)に一年の煤がたまり、台所の釜場で餅つきの米を蒸すときの水蒸気で煤が落ちて餅が汚れてしまうおそれがあったそうです。そのため、煤払いは餅つき前に終わらせておく必要がありました。
餅つき・・・餅つきは煤払いが終わった後、28日頃の家が多かったようです。29日は「クンチモチ」31日は「イチヤモチ」と言って、この両日は避けられていました。餅の種類は主に米の餅でしたが、地域によっては粟餅(あわもち)や黍餅(きびもち)がつかれていたようです。
大晦日・・・大晦日には正月三が日に食べる食事の準備をします。おせち料理を作ったり雑煮の具の下ごしらえをしたりします。雑煮の具は大根・サトイモ・菜っ葉が一般的だったようです。
ほかに大晦日の行事として「晦日祓い(みそかっぱらい)」があります。一家の主人が近くの神社や寺からいただいた幣串(へいぐし)を用いて、家の中や家族ひとりひとりをお祓いします。
年越しそばを食べるようになったのは戦後になってからで、それまでは普段どおりご飯やうどんを食べていました。
大正月
年男・・・普通、年男といえばその年の干支を迎えた年齢の男の人のことですが、ここでは家の主人のことを指します。正月行事を取り仕切るのが役目です。長男が20歳になると年男になる地域もあります。
三が日の家事、年神様をはじめとする諸神への供物の上げ下げなど、すべて年男が行い、女性は手出しをしないのが普通でした。戦後、年男の役目は少しずつ減っていったようです。
若水・・・元旦の朝、最初に井戸から汲む水を若水といいます。年男は若水を年神様に供え、茶を沸かし、雑煮を作ります。
年神様・・・年のはじめに訪れてくる神様であり、年神様を迎えるための神棚を毎年作ります。常設の神棚に迎える家も多かったそうです。
小正月
元旦を中心とする大正月に対して15日を小正月と呼びます。うるち米で作った団子を枝にさして飾る「繭玉(まゆだま)飾り」をしたり、嫁や使用人が里帰りしたりしました。
同じ正月でも、地域によって若干の違いがあります。残念ながら、年月とともに失われてしまった習慣もありますが、少しずつでも後世に伝えてゆきたいものです。(F)
参考文献
- 『所沢市史 民俗』所沢市《213.4ト》
- 『ところざわ歴史ものがたり』所沢市教育委員会《213.4ト》
- 『三ヶ島地区の年中行事』所沢市立三ヶ島公民館《K382ミ》
J所沢に鉄道を 川越鉄道と武蔵野鉄道(2008.02)
明治5年、新橋―横浜間に鉄道が開通すると、国内に次々と鉄道が開設されました。明治半ばには幹線鉄道ばかりでなく、小区間の私設鉄道が相次いで敷設されました。
このような社会の動きの中、明治23年12月に甲武鉄道・国分寺駅から分岐し、所沢から川越へ至る川越鉄道建設計画が請願されました。建設のための仮事務所は所沢に置かれ、設立発起人および出資者名簿には向山小兵次、斉藤与惣次らが名を連ねています。しかし、川越鉄道と呼びながら川越町からの発起人はおらず、これは古くから川越の商人と深く繋がっていた新河岸川舟運との競合が問題視されていたためといわれています。
明治26年に川越鉄道の工事は始まりましたが、さまざまな問題もありました。多摩郡では植樹の補償をめぐって、入間川(現狭山市)では架橋をめぐって、松井村下安松では踏切用地をめぐって住民の反対の声があがりました。吾妻村久米では、建設予定の柳瀬川架橋の長さが十分でなく、増水時に洪水を引き起こす原因になると激しい反対運動が巻き起こりました。
こうしたいくつもの対立や工事建設をめぐる問題に直面しながらも、明治27年12月に国分寺−久米川(現東村山)間が、翌28年に久米川−川越間が開通しました。あわせて所沢停車場(現所沢駅)が開設されました。
明治44年、飯能町、所沢町など地元の有力な資本家たちが中心となって、北豊島郡巣鴨村を基点とし所沢を経由して飯能へ至る鉄道の開業免許の申請をしました。
当初は「武陽軽便鉄道」という名称でしたが、間もなく「武蔵野軽便鉄道」と改称されました。軽便鉄道とは標準的な鉄道より軌間が狭く、レールも軽量で輸送能力は低いが、建設費用や経費は安くあがるというものでした。
ほぼ同じ時期、川越鉄道は入曽を分岐点に飯能に至る支線を申請しましたが、こちらは認可されませんでした。
地蔵山停車場(現西所沢駅)開設に対する住民の反対や、鉄道用地の確保など敷設計画は難航しましたが、大正4年3月、武蔵野鉄道はすべての工事を終了し、4月から旅客営業を開始しました。
その後、両鉄道会社はさまざまな過程を経て合併・改称し、現在の西武鉄道となっています。(F)
名に高萩や飯能を 聞きて再び入間川
入曽を過ぎて織物の 名に知られたる所沢
「地理教育埼玉唱歌(石原和三郎/作詞)」より
参考文献
- 『所沢市史 下』 所沢市《213.4ト》
- 『新編ところざわ史話』 所沢市《213.4ト》
- 『ところざわ歴史物語』 所沢市教育委員会《213.4ト》
- 『埼玉の鉄道』 老川慶喜/著埼玉新聞社《686.213オ》
- 『日本鉄道史の研究』 八朔社《K686ニ》
- 『埼玉大百科事典 3巻』 埼玉新聞社《K030サ》
K所沢の鉄道と駅(2008.03)
西武池袋線
前身は武蔵野鉄道。昭和20年に西武鉄道(旧・川越鉄道)と合併し西武農業鉄道となり、21年より西武鉄道と改称しました。
- 所沢駅(明治27年12月21日〜)
- 池袋方面上り列車と新宿線西武新宿方面上り列車の進行方向が逆向きという珍しい形態の駅です。武蔵野鉄道発足当初は池袋と飯能をほぼまっすぐにつなぐ計画でしたが、国からの指導により所沢を経由して川越鉄道と接続する計画に変更しました。このような経緯から、都心方面へは逆向きという形態で接続しました。
- 西所沢駅(大正4年4月15日〜)
- 最初はこちらが小手指駅でした。 大正7年3月1日より現在の西所沢駅となりました。
- 小手指駅(昭和45年11月20日〜)
- 開設時は雑木林と桑畑の中の小さな駅舎でしたが、その後の開発で辺りの風景は一変しました。
- 狭山ヶ丘駅(大正4年4月15日〜)
- 元狭山駅→三ヶ島駅と改称し、昭和8年3月1日より現在の狭山ヶ丘駅となりました。
西武新宿線
前身は川越鉄道。大正9年に武蔵水電、大正11年には帝国電燈に吸収合併され社名を西武鉄道と改称しました。
- 航空公園駅(昭和62年5月28日〜)
- 昭和61年に開設された市内で一番新しい駅です。「関東の駅百選」にも認定されています。
- 新所沢駅(昭和26年6月1日〜)
- 開設当初は北所沢駅でしたが、新所沢団地の建設がはじまった昭和34年に新所沢駅と改称されました。
西武狭山線
武蔵野鉄道が昭和4年5月に開業しました。戦時中に一時休止しましたが、昭和26年に再開しました。
- 下山口駅(昭和4年5月1日〜)
- 昭和29年に休止駅となりましたが、沿線住民の増加にともない昭和51年に復活しました。
- 西武球場前駅(昭和4年5月1日〜)
- 村山公園駅→村山貯水池駅→村山駅→狭山湖駅と改称をくり返し、昭和54年の西武球場開設とともに西武球場前駅と改称しました。
西武山口線
もともとは「おとぎ電車」と呼ばれる西武園遊園地の乗り物でした。昭和47年からは蒸気機関車が走るようになり注目を集めましたが、昭和59年に運休。その後AGT(案内軌条式鉄道)に切り替えて営業しています。
- 遊園地西駅(昭和60年4月25日〜)
- 路線のAGT化にともない開設されました。
JR武蔵野線
東京の外環状線として計画された武蔵野線は昭和48年に府中本町―新松戸間が開通しました。
- 東所沢駅(昭和48年4月1日〜)
- 市内唯一のJR駅。駅開設に先立つ昭和46年には東所沢土地区画整理事業が始まりました。(F)
参考文献
- 『全国鉄道事情大研究 東京北部・埼玉編1・2』 川島令三/著草思社 《686.21カ》
- 『駅名事典』 中央書院《R686.53エ》
- 『ところざわ歴史物語』 所沢市教育委員会《213.4ト》
- 『日本鉄道史の研究』 八朔社《K686ニ》
- 『日刊新民報』 1970年11月19日


